日々の雑記 (LOG)

私の祖父の物語(日本語版)

私の祖父は新潟県十日町で育ちました。十日町は、豪雪地帯で有名な場所です。祖父は若い頃に東京に来ました。
第二次世界大戦が始まり、中国の満州に送られました。
当時、満州にはたくさんのカワウソがいて、人々はそれらを取り除くのに苦労していました。
祖父は、カワウソの皮をオイルフィルターとして軍隊に売るのはどうかとひらめきました。軍隊に大量のカワウソの皮を売って稼いだそうです。

それから彼は戦争中にボルネオに移されました。
その南の島にはたくさんのヤシの木がありました。
私の祖父は、ココナツからロープを作り、それを軍隊に売ることを思いつきました。このロープは頑丈で高品質であり、軍隊にロープを販売するビジネスは成功を収めました。
しばらくして、戦争は終わり、祖父は結婚し、父と叔父の2人の息子を持ちました。
祖父は様々な事業を行い、いろいろな会社を作りました。時々それは成功しませんでしたがあきらめませんでした。
祖父が銀座にアートギャラリーを作ったとき、私の父(彼の息子)は私の母と結婚しました。

横浜に大きな家を建てるのにかかる総費用は、祖父と父が平等に負担しました。二世帯用の広々した家です。
そこに私は初孫として生まれました。

私が小さい頃、父は大企業で働き、祖父は銀座のアートギャラリーで働いていました。家の書斎で祖父がタイプライターを使って海外の友人たちに手紙を書いていたのを今でも覚えています。
私の祖父は日本の『版画』を海外、特にアメリカの顧客に販売し、この分野の先駆者となりました。
祖父はメリーランド州ボルチモア市にて名誉市民として表彰されました。

海外出張中、部下に印鑑を託し、帰国した時、会社が乗っ取られていたという経験をしました。
それでも、祖父はあきらめず、祖母の故郷である仙台に引っ越してからもアートギャラリーを開きました。それも成功しました。
そして、晩年を仙台で過ごしました。
私の祖父は2005年に亡くなりました。

私は今も祖父のことが大好きです。

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